自分だけなら、私は戦わないでどこかに逃げられる(多分)。
だけど病気の子どもとか動けない/動きにくい人たちがいるわけで、その時に「殺したくない」から逃げて「見殺し」にできるのか、戦うのか。
ただ、そういう選択になる前に、どのように、明確に意思をもって暴力を行使する人たちを止められるのか。
言葉はある、だけど警官が暴力をもっているように、暴力でしか鎮圧できない暴力が実際に世の中にはある中で。
だけど病気の子どもとか動けない/動きにくい人たちがいるわけで、その時に「殺したくない」から逃げて「見殺し」にできるのか、戦うのか。
ただ、そういう選択になる前に、どのように、明確に意思をもって暴力を行使する人たちを止められるのか。
言葉はある、だけど警官が暴力をもっているように、暴力でしか鎮圧できない暴力が実際に世の中にはある中で。
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小林えみ
「殺すな」と「私は殺さない」の立場でいられるときは、軍事力の放棄を語れる。だけど「殺されるかも」の場合に、それでも何も持たない、と言える人のことは尊敬するけれど、ウクライナで戦っている女性たちを見たときに、私は、「私は戦わない」とは言いにくい、と思ってしまう。でもそれは「私は殺す」ということかもしれない。そういう話をしたいと思います。
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