メルヒェン系ファンタジーのクラシックな批評のしかたで、「作品全体をひとつの人格として、そのなかのさまざまな種類の情動や理知を象徴するのが一人一人の登場人物である」とみなすやり方があって、その見方のもとでは「他者との確執」は「自分の中の葛藤」と同義になるのね。
その線で言うと、フィクションの創作において「他者を描ける・描けない」というのは現実における複数の他人の像を上手く描き分けられるかどうかよりも「一個の人間精神の起伏をきめ細かく描ける・描けない」の問題となってくる、場合がある。
それはファンタジー度の高い分野の話だけど、フィクション全般でもあるていどは言えるんじゃないかな。
その線で言うと、フィクションの創作において「他者を描ける・描けない」というのは現実における複数の他人の像を上手く描き分けられるかどうかよりも「一個の人間精神の起伏をきめ細かく描ける・描けない」の問題となってくる、場合がある。
それはファンタジー度の高い分野の話だけど、フィクション全般でもあるていどは言えるんじゃないかな。
Comments
ただ、ここでなんで「クラシックな」と前置きしたかというと、このアプローチってキャラクターを個人として尊重しないものだし、人物を単純化させればさせるほど象徴の純度が上がって良いとするものなので「多様な人間たちを多様なキャラクターで反映する」「人間とは複雑である、キャラクターもまた」という近現代的アプローチが追求される時勢にはまあ優先度下げられやすいのよね。ロールモデル論とかと相性悪いし