古典を一部の人間、とりわけ権力を持つ者たちの占有物にすることは、非常に恐ろしいことなのだ。

ネットにしばしば沸く「【超訳】君が代」が【超訳】であることに、市民の大半が気づける──そうした状況を最低限でも維持するためには、公教育における古典の授業は絶対に軽んじてはならない。

古典への回路が、あらゆる市民に開かれてあること。

それは、公教育における古典の授業の存在によって、初めて保障されるものである。

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