創世記のアダムとエバの物語を読んでみると、人のあばら骨からもう一人を作るまでは男でも女でもない「アダム(土を意味するアダマーが由来)」、つまり人間そのものの存在なんだよね。そこに「わたしの骨の骨、肉の肉」と呼ばれるほど近しい存在として「助ける者」の他者が生まれたことで初めて、彼らは男と女になっている。
だからこの話は、助ける者としての他者があって初めて人は「個人」となりうる、という話であって、性別を明確に分けた、女が男に服従するべき、という根拠として読まれるべきではないと思う。性別における様々なグラデーションの認知は、他者との相対的な比較の中で生まれることを忘れてはいけない。

Comments