創世記のアダムとエバの物語を読んでみると、人のあばら骨からもう一人を作るまでは男でも女でもない「アダム(土を意味するアダマーが由来)」、つまり人間そのものの存在なんだよね。そこに「わたしの骨の骨、肉の肉」と呼ばれるほど近しい存在として「助ける者」の他者が生まれたことで初めて、彼らは男と女になっている。
だからこの話は、助ける者としての他者があって初めて人は「個人」となりうる、という話であって、性別を明確に分けた、女が男に服従するべき、という根拠として読まれるべきではないと思う。性別における様々なグラデーションの認知は、他者との相対的な比較の中で生まれることを忘れてはいけない。
だからこの話は、助ける者としての他者があって初めて人は「個人」となりうる、という話であって、性別を明確に分けた、女が男に服従するべき、という根拠として読まれるべきではないと思う。性別における様々なグラデーションの認知は、他者との相対的な比較の中で生まれることを忘れてはいけない。
Comments
素直に読解すれば女は男を助けるものとして作られたと読むのがどうしても自然になってしまう。
旧約聖書が当時の文化基準(当時同性愛やトランスジェンダーは想定されていない・男尊女卑の父権制社会)で書かれているからこそ、多様な性が認められた今の視点で聖書を読もうとするなら、当時の文化的基準に則って書かれた(書かざるを得なかった)話の向こう側、「この話(神)は本質的に何を語ろうとしていたのか?」という問い掛けから読み解く必要があると思うんですよね。
トランスジェンダーとかに関しては先程の夜明けとか作ったとは書かれてないけどある、で説明がつくというか聖書に作ったもの全部書いてあるわけではない、でいいと思うんですけど男尊女卑は書かれているからこそ難しいのかと。
書かれた物は固定ですが読解は流動的なもので、でもそんなに流動的に読解してよいのか?とかどこまで柔軟に解釈してよいのか?とか色々あるのかとは思います。
多様な性も認められたというか勝ち取ったものであることは忘れないでほしいですが…。
ちょっと理解が深まりました。ありがとうございます。