「熟議」は一見崇高な建前にみえるけれど、<賢人となり、クレバーな意思決定の達成しよう>という趣旨で使うのには限度がある。「熟議性民主主義」を巡る議論を僕が面白いなと思ったのは、それが「仕組み」の模索だったから。
一度いまあるリソースをテーブルにのせつつ、他者を否定しないという安心性を確保しながら、合意形成に時間をかける。これはある意味では、<速度>との向き直しであり、<場所>の再設計をしようという呼びかけだったと思う(余談だけど、加速主義という言葉は相当に誤用あるいは意味の拡散があるので、使うのは控えている)。
一度いまあるリソースをテーブルにのせつつ、他者を否定しないという安心性を確保しながら、合意形成に時間をかける。これはある意味では、<速度>との向き直しであり、<場所>の再設計をしようという呼びかけだったと思う(余談だけど、加速主義という言葉は相当に誤用あるいは意味の拡散があるので、使うのは控えている)。
Comments
かつての「晒し」への躊躇は薄まり、なおかつ今は「切り取り」が推奨される。たまたま自分は、比較的スローで、場所性もあるラジオを続けている。一方で、ラジオも「切り取り」を避けることはできないし、積極的に動画コンテンツ化も進められる。政治系podcastの動向を見ても、意図的な単純化や扇状的フレーズの多様化が広がっている。
メディアは全体としての生態系を作り上げており、自分は常にその一部。どんな応答が可能か、探りながらマイク前にいる。