オタクが気持ち悪くなくなったというより、気持ち悪い欲求はDLS iteで発散させ、SNSではあたかも「私は気持ち悪くないですよ」と言えるような、プラットフォーム切替可能な社交性みたいなものを持つオタクが生き残れただけな気がしなくもないんだよね。
多分、DLSiteの利用履歴を見れば、どのオタクも今も昔も気持ち悪い。
女子高生におっさんの趣味を代行させる作品も、その気持ち悪さだけはロンダリングしているわけですよね。
作品として読者の様々な趣味を女子高生に仮託することが可能だが、「◯◯高校DLSite部」(?)みたいな読者の気持ち悪さだけは仮託不可能になっている。
多分、DLSiteの利用履歴を見れば、どのオタクも今も昔も気持ち悪い。
女子高生におっさんの趣味を代行させる作品も、その気持ち悪さだけはロンダリングしているわけですよね。
作品として読者の様々な趣味を女子高生に仮託することが可能だが、「◯◯高校DLSite部」(?)みたいな読者の気持ち悪さだけは仮託不可能になっている。
Comments
だから、気持ち悪い部分にこそその人の本質的なものが含まれているし、互いに気持ち悪いことを認め合った上で、その気持ち悪い領域についても語れるようなコミュニケーションに憧れる気持ちがあるんです。
何回も引用しているけど、植芝理一の『ディスコミュニケーション』11巻の『夢の扉』は、まさにその気持ち悪い領域のコミュニケーションの話だと思います。
誰かに見られることを想定していないどころか、見られたくない自分の気持ち悪さについて、対等に語り合える相手がいたとしたら、そういう人間関係は素敵じゃないですか。