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燗酒好き。ドラマ好き。アイコンは神田まつやの鍋焼きうどんです。ここのアカウントには、主に朝ドラと読んだ本のことについて投稿してます。フォローもフォロー解除もお気軽に、です。
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RP 「逆戻りじゃなくて、螺旋状に、韻を踏みながら、異なるやり方を探ってゆく社会」 螺旋状、この感覚。とても大事だと思うなぁ。これからを生きてゆくにあたって。現代の私たちは、決して直線上にのびる歴史のゴールにいるわけじゃないというか。過去の「間違い」の本質を考え続けなければいけないな。勉強し続けなければ。

「家族」という一筋縄でいかない機構とその概念についてもそうだけれど どこかの一面だけを切って考えることはできないよなぁ。動き続けるシステムなわけで、時代に合わせて変化しながら考えてゆく必要がある。 家族の構成員がどんどん少なくなってゆく中で、このシステムをどう動かしてゆくか、都度都度考えなきゃならない。やっぱり、必要なのは「外部」で、小さくとも一度しか会わずとも、外の人と縁を繋ぐのが、人間にとって大事なのだと思う。 おむすびは「人助け」としてそれを描いたけれど(だから返ってくる、として)、別に助けなくとも、ただ一言交わすだけでもきっと良いのだよね。

しかし永吉さんのホラ、最初から最後までホラなわけじゃなくて、実際に会っていた人たちの話だったのでは…と匂わせるところに、永吉さんのスケールの大きさを思わされたなぁ。お葬式で発覚する、というのも永吉さんらしい。 #朝ドラおむすび

#朝ドラおむすび 木曜回と金曜回を続けて視聴。 縁が切れない「家族」 の再解釈だなぁ、と。 - 永吉さんに助けられた(たくさんの)他者たちの物語が伝えるのは、 「家族」という(呪いになり得る)強すぎる機構は内側だけで完結できず、むしろ、外へ外へとたくさんの「縁」を繋ぐことによって初めて上手く回り始めるのではないか、ということではないか。 - 学費問題、永吉さんは聖人さんに謝らなかった。永吉さんはこの罪が赦され得ないとずっと思っていたのではないか。 小松原さんの息子からの謝罪によって、聖人さんは初めて「赦す」ことができるのだな、と。

#朝ドラおむすび 使途不明の学費、文七元結みたいな話なのかなと思ってたら、「報いの無い」文七元結だった… - 「誰かのため」は良いことであるはずなのに、それは「呪い」に変わり得る。 「なぜ?」という花の無邪気な疑問の言葉が心に残る中 「患者さんのため」という言葉で無茶振りされる柿沼さん、を同時に描いているわけだよな。 「誰かのため」という心が、別の誰かを搾取している、という構造。 - 重ねて描かれているけれど、これらは別の事項である。ということも大事。 聖人さんが永吉さんを受け入れるまでの時間と関係性と 結たちと柿沼さんの文脈は別で、それは別のこととして解決されるべき問題である。

とは言え、私たち(現代に生きる私たち)は、根本的に大きな「祭り」を欲しているのだと思う。 でも、オリンピックや万博のような、「国の威信をかけた」外向きのものでは、もはや上手くいかない(たくさんの矛盾を孕んでしまう) 日本に住む人たちのための(「日本人」ではなく)、内向きの、「祭り」が必要なのではないかなぁとなんとなく思う。 祭りは、衝動の解放であると同時に秩序なので、「運動」とは似て非なるものと私は認識していて、政治的目的無き昂揚って、すごく大事なのではないかなと思ったりする。

大きくて堅い「壁」だった父親が、老いて弱く小さくなっている。反発できるのは、その「壁」が大きくて揺るがないからだ。「家長」「父親」「男性性」…

万博開催においての問題点が多すぎることは前提の上で なんとなく、万博という価値観がもはや現代的な価値観に合っていないのではないか、ということも思うよなぁ。あまりに「近代」的に過ぎるというか。

#朝ドラおむすび 居酒屋きよしという場所の描き方、本当にずっと良いよなぁ。 佳代さんが秘密を「話す」(=「共有する」)と決めること、その空間をつなぐのは、「差しつ差されつ」の燗酒。酒を共有する、関係を共有する、時間を共有する、自分のことを共有する。あたたかい酒で、ほろりと優しく酔いながら。 これぞ燗酒のよろしさよ、という描かれ方で、観ていてなんだか嬉しかった。

おむすびにおける「ギャル」って、現実のギャルそのものとはもはや違うのだと私は思っていて、(日本の神話における)「女神」的存在と同義なのだと思う。 おむすびは、「ギャル」の物語を表層に持つ、聖人さんの・そして永吉さんの物語。

「金々先生栄花夢」読み返して、続き。 ・金はあるけど野暮な金々先生、遊女たちに持て囃されど「心」を得ることはできない そこで蔦重と瀬川。金はないけど、「心」だけは得ている。それに気付かぬ、野暮な蔦重。とも見ることができるわけだな…(「ばーか!ばーか!」である) - でも同時に、「金はないけど」の大きさたるや、とも私は思うのである。(それに関しては、以下に書いた通り。それも含めての全体の作り方だと思って観ている。) #大河べらぼう

なるほど。(かつての)万博がテーマになることと、聖人さんの世代(そして住まいが九州だったこと)が重なって、すごく納得感。 あの万博は、行ったことのある人にとっては物凄い経験だったらしい。…ということは、経験した人の文章などでなんとなく知っていた。 もしも、聖人さんが子供のその時に万博に行っていたら、色々なことは全く変わっていたのだと思う。 何故、永吉さんが「皆で」太陽の塔を見たいというのか。「家族」の話であると共に、「日本」の分岐の話でもある気がする。 朝ドラおむすび

昨日は割と早く寝たのに、起き抜けから本読み始めてしまってこんな時間。やっぱり、べらぼうを観るのには時間をべらぼうに使うのだわ…

「金々先生栄花夢」、改めて読み返してみた。ドラマと合わせて色々発見があったなぁ。 ・主人公金兵衛と和泉や清三の「親子・主従」の祝儀の酒宴 (ドラマ内冒頭の、忘八の酒宴と主人・駿河屋の酌、も思い出す。物語内で初めて蔦重は酒を呑んだのでは?と思う。) ・吉原通いに飽きて、深川、品川にも通っている。(吉原だけじゃなく、岡場所にも通う) ・取り巻きの手代・源四郎。(源四郎=ごまかす、の意) 金々先生をそそのかし、費用をちょろまかし自分のものにする。 (ドラマの内容的に、蔦重のネタを自分のものにして出版した鱗形屋にも重なる) #大河べらぼう 8話

瀬川の想いと、その想いに応えない(応えられない/応えようが無い/気づきようが無い)蔦重、というのは、 この物語の、「身分社会」を描くこの物語の肝なのだと思う。 初回において表出した、「吉原」を描くなんて、という批判への応答であるし、 もっと突っ込むと、「吉原のため」と言いながら「搾取」に加担する「男性」としての蔦重、という、極めて現代的な目線からの批判の応答でもあるのだと思う。 #大河べらぼう

今RPした私自身の過去投稿も含めてなのだけど、 べらぼう物語において、すでに蔦重は恐らく金々先生なのだ。というのがすごい。だってこれは蔦重栄華乃夢噺。 (「金々先生栄花夢」の田舎侍は、粟餅屋で夢を見始めるのだ。) しかし、「金々先生」については過剰に説明されず、「敵」として(しかしその内容は自身の持っていたものを盗られている)位置づけられている。面白い。物語の構造として。 大河べらぼう

#大河べらぼう 「金金」から始まり、「つまらなくない」青本の趣向の話になり(「うがち」!)、少しずつ、しかし確かに黄表紙が誕生しようとしている… という第6話の最後、粟餅で震えた…! 粟餅屋は、黄表紙の嚆矢・「金々先生栄花夢」の、始まりであり、そして終わりである。 - 「粟餅を落とした者への手向」って、とても武士的な発想だとも思う。(これは、「由緒」につながるだろう) 鱗の旦那の最後の台詞が気になるし、 彼が、金金野郎物を考えている時に「悪者が甘い汁を吸って〜」と言っていたこと(「金々先生」は、そういう話ではないのだ)、黄表紙「御存商売物」の展開も想う。 手向…終わらないのでは?と

蔦重が、この物語においてお酒を呑んだのはこれが初めてだったと思うのだ。しかも宴席で、主人の酌によるものなのだ。 「登場人物」になった、という感じがとてもあった。 - 対して、地本問屋vs忘八 のシーンでは、酒を断り続ける鶴屋と、酒に持ち込みたい忘八(扇屋)との攻防。 そこで語られる鶴屋の"倫理的"発言(吉原への差別・「身分」的な潔癖)は、逆説的に、酒を介したコミュニケーションにおいては、成立し得ないということなのではないか。 大河べらぼう

#大河べらぼう 8話 すごいなぁ、と思ったのは、「お前にはいちばん幸せになって欲しいと思ってる」である。 「幸せにしてやる」と言えない、いやそんな発想すら無い、江戸の身分社会の中の蔦重のこの発言を、 明治維新、敗戦、その後、と経た現在の価値観、「男の甲斐性」そんな古いもん否だ!というドラマ文脈で観るという、この何重もの捩れだ。

「ファーストキス」と「ゆきてかへらぬ」観たいなぁ。 映画を観にゆく時間が捻出できない…

RPs 「強さ」として表出するものは、実は「弱さ」(不安や自信の無さ)の裏返しなのだ、というご指摘、大変に納得。 その「弱さ」と向き合うこと、向き合ったその先、を、ナベベや聖人さんで描いているのだなぁと。

「家」「父」「長」制度としての、娘たちへの支配と干渉「じゃない」んだ、そう見えるし「事実、歩には手を振り上げた父親聖人」の不安の現れなんだと。過去の強さは弱さ描写だったと。今時点から見たら、過去のそれは男性性の弱さの部分だったんだと強調する朝ドラの今日のストーリー。まあ先週の堀内栄治パパの息子誠への強権支配と並べて見て始めて意味がとれそう #朝ドラおむすび

#朝ドラおむすび 娘たちの仕事ぶりを誇り、弟子(翔也)のひた向きさを認め、最愛の妻にその愛を真っ直ぐに伝える。 こういう場面、今まで「伝えられる」側としてしか、観てこなかったな。「お父さんが認めてくれた」という場面としてしか。 聖人さんの眼で観ると、それは転換するのだということに気がつく。 誇りに思い、愛を伝えられる存在がいること。それを自身が認められることの、その幸福があるのだということ。 それが、「自分の人生」に価値を与えるのだ。 - (モンスター患者だった)堀内さんが、同じように感じられるようになれば良いな、と思うし、こう感じるようになるのではないかな、とも思う。

RP 黄表紙作家や狂歌師たちには武士身分の人物も多く、しかし作家名(狂名なんてふざけたものばかりで)においては普段の身分やら仕事やら隠して活動できる、というある種の自由、みたいなものをこの事実から受けるのだけど 普段顔を隠して活動している人の素顔、というのは、この真逆にある気もしますね。

『べらぼう』が、普段顔を隠している人(ジェームズ小野田、鉄拳)や声優さんたちを、こぞって起用するのは、いったいなんの暗喩なのかねえ。顔の見えない人が晒す素顔。なにかしらのメッセージだと思うのよね。 #大河べらぼう #べらぼう

昨日の回、「趣味を持つことをしてこなかった」という自分の地層との対峙/父親(永吉さん)との対峙があったからこそ、「糸島に行きたい」という気持ちになるのだよな。 - そして「食べり」の持つ聖性の理由が、ここではっきりと分かる。聖人さんの「故郷の」言葉・「母親」佳代さんの言葉、だからだ。(「食べり」が初めて登場したのは、佳代さんが中学生の歩に対して言った時だった) おむすびは、聖人さんの物語でもある。父に反発し故郷を飛び出した男性が、父になり年を重ねまたその地へ戻る、その物語でもある。 #朝ドラおむすび

#大河べらぼう 第七話やっと観られたー!いやぁほんと面白いなぁ。 「細見とはかくたるもの」という前提を疑うところから始め、解体し、より現実に近い形に・より多くの情報を取り入れてゆくというスタイルは、この時代に同時に起きていた学問の流れにも通ずるような気がする。本草学や医学(まさに「解体新書」の。解体新書については、源内が何話か前・耕書堂命名のときに言及していた。)、より緻密で現実的なものへ、という探究。知識の体系の変化は見えるものの変化でもある。

しかし、居酒屋きよし、登場するたびに素晴らしいところがちょこちょこ見えてくる、ニクイ演出。 今日はおでん鍋が映されて、その横に酒燗器があるのを私は見逃さなかったぞ! (益々呑みにゆきたい…) 松崎先生の使い方はほんとにこのお店の一側面だけ。結の「栄養」観点も一側面。 どんなに知っているようでも、ひとには知らない一面がたくさんある。を描き出す場として、とても相応しいよなぁと個人的に(超個人的だけど笑) 感心している。 #朝ドラおむすび