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怪談、銭湯、旅行、感傷。
私には、ただモニターの外から幸せを祈り続けることしかできない。※引用RPが嫌いです。
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ただ、別に誰かとの対話ではなく独り言を呟きたい時はある。そういう時にChatGPTは使えないので、SNSに投稿することになる。
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逆にChatGPTよりも話していて楽しい人間関係を、友人と定義するとしっくりくる。
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それは良かったです!応援してますヽ(@・wk・)ノ
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ヴェイパーウェイブなどの架空のノスタルジーが好きなのも、それがフィクション経由した「偽物」のノスタルジーだからだ。その時代を実体験した人間による「本物」のノスタルジーと比較して、無条件に否定してよいものではないと考えている。
自分のノスタルジーに対する嗜好は、フィクションなどを経由した「偽物」のノスタルジーに偏っていて、実体験に基づく「本物」のノスタルジーにはそこまで興味がない。
だから、「かつて栄えていた時代を復興させよう」みたいな、右寄りに傾きやすいノスタルジーにも冷めた目を向けてしまう。
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それが良い。
こういう話に惹きつけられるのは、自分自身が何の根拠もない土地である、埋立地のすぐそばで育ったことも影響しているんだろう。
埋立地は数十年前には単なる海でしかないし、大した伝統もなく、そこで長年過ごしてきた歴史もない。言わば、偽物の土地でしかない。
多分、自分が本当に興味があるのは、偽物に対するエンパワーメント(この言葉は嫌いだけど)なんだろう。
だから、ネットでよくあるリアルとフェイクを対比させて、フェイクを相手に対する否定的な言葉として使う風潮が大嫌い。
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めちゃくちゃアホっぽい慰めになってしまうのですが、でも、自分が好きなものを自分の手で形にするのは楽しくないですか?
多分、形にしていく途中で、少しずつゆめにっきと違う部分も現れてくると思います。
キツい時は必要性について、あまり考えなくても良いんじゃないかな、と。
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ああー、ノウハウ継承はあるかもですね。
ケバブ店だけだと単価が安いので、インネパみたいに店の中で食べれて中東要素のあるお店が増えるのかもしれません。
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新宿などにグリルハンターというハンバーグ屋があり、ハラルマークついていてケバブも食べれるのが共通しているので、もしかすると系列店なのかもしれませんね。
s.tabelog.com/tokyo/A1304/...
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KAI-YOUあたりのライターさんで、糸井重里本人にも80年代バブルにも90年代JRPGにも2010年代の架空のノスタルジーにも詳しい誰かが書いてほしい。
これは非常に重要な仕事という気がする。
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問題なのは、自分のメカニズムを自覚して言語化できている人は稀だということだ。
長年の知人なら何となく分かるけれども、SNSの、それもフォローしていない人のメカニズムを認識するのは非常に難しい。
ただ、「感情を交えず、論理的に対話すれば誰とでも分かり合えるはず」という考えは、早めに捨てた方が良いと思う。
そのスタイルで話しやすい人は多いけれど、全員がそうではない。
むしろ、テキストコミュニケーションに不慣れな人への侮りに繋がってしまう恐れがある。
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良いですよね…。
恐らくなんですが、稲生平太郎作品の怖さは、丹念にネタを繋げているのに読者が気がつかないままに物語が加速していき、終盤になると加速しすぎて「向こう側に到達してしまった人間」の脳内を見せつけられている気がするからかもしれないです。
途中までは話の通じた主人公が、どんどん話が通じなくなっていくのに、その主観は読者と共有されているという。
そこが幻想文学的だし、ホラー的でもあるのかな、と。
(稲生平太郎作品が好きなので、初めてのリプライなのに長文になっちゃってすみません)
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稲生平太郎の『アクアリウムの夜』はすごく好きです。
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隠れやすい駐車場の影とかにいそう……。
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ぜひ!羊羹が好きなので、以前この本を読んだんですが、結構面白かったです。
amzn.asia/d/5GLMbhI
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和三盆ではないですが、戦国武将は輸入した砂糖で羊羹を作ってもてなしていたという話もありますし、一部の人は江戸時代より前から食べられたみたいですね。
kangaeruhito.jp/article/15564
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残るのは一部の水菓子くらいかな。
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それはとても居心地の良い変化でもある。
ただ、そこに居心地の良さを感じるのは、既に自分は過去の公的なSNSを通してある程度の人間関係を構築しているからで、これから人間関係を構築する若い人にとって、過去よりもチャンスが減っているんじゃないか。
もしくは生成AIとしか対話相手がいない人間も、そのうち(既に?)現れるんじゃないか。
自分としては楽だが、恐らくは信頼できる公的空間がインターネットに成立していた方が、多くの人(特に若い人)にとって良かったはず。
それならどうしたら…みたいな問題意識が自分にはあるかもしれない。
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SNSだと気持ち悪い話はしづらいし、仮にしたとしても「どれだけ気持ち悪いか」を競ってインプレッションを稼ぐオタクチキンレースになりがちだけど、こういう極私的なコミュニケーションは良いものだと思う。
誰かに見られることを想定していないどころか、見られたくない自分の気持ち悪さについて、対等に語り合える相手がいたとしたら、そういう人間関係は素敵じゃないですか。
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基本的に周囲から気持ち悪い人間と思われたくないから、自分の気持ち悪い部分は隠しますよね。
だから、気持ち悪い部分にこそその人の本質的なものが含まれているし、互いに気持ち悪いことを認め合った上で、その気持ち悪い領域についても語れるようなコミュニケーションに憧れる気持ちがあるんです。
何回も引用しているけど、植芝理一の『ディスコミュニケーション』11巻の『夢の扉』は、まさにその気持ち悪い領域のコミュニケーションの話だと思います。
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作品って、こういう永遠に残るササクレみたいなシーンを作れるか否かだと思うんだよね。
何かの拍子に「あれは何だったんだろう」と、ササグレを剥がしたくなる。
そのササクレの前では、作品全体の整合性はあまり関係ない。『千と千尋』だって、千尋が途中から両親よりハクを助ける話になって割とデタラメだけど、終盤の海の上の電車シーンは何百回観ても良いわけだから。
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両者の議論が全く噛み合わないまま決裂した後、一人の老人が「(鱒釣りのシーズンはの前に釣りをしようとするなんて)全く世も末というものだ」と言う。
この台詞が本当に素晴らしくて、『渚にて』の世界観だと比喩表現ではなく、本当に世も末なんですよね。そのことを理解しきれていない老人への強烈な皮肉で、他の描写はすっかり忘れたけど、このシーンだけは記憶に残っている。
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自分の異性の人間関係で一番近いのは、高校からの画家の友人だろうか。
でも、この二人みたいに幼い頃から互いに知っていて、姉弟の権力関係も希薄で互いに個人主義的で、内面や映画や文学などの話もしつつ、たまに会う異性の親友みたいな関係…非常に良い。恋人や結婚相手と違って、後から作れない関係だもんな。